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- 戦争に伴う学童疎開の記録
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太平洋戦争の末期,大都市への空襲が激しくなる中,児童の生命を守るため,国民学校(現在の小学校)3年生以上の児童を農山村や地方都市に移動させる「学童集団疎開」が行われました。
京都市でも,昭和20年に入り始めての空襲(1月16日馬町空襲)を受けるなど,戦禍が拡大する中,同年3月から多くの学校で京都府内の市町村への学童集団疎開が行われることになりました。疎開先は地域ごとに京都府下の町村が指定され,宿舎には寺院や教会,旅館などが寮として提供されました。近くの国民学校(小学校)で授業を受け,放課後は畑を耕すなどの労働についていました。
学校名 | 月日(昭和20年) | 疎開先 | 人数構成 | 寮や学校など | 取り上げている資料 | 源資料 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
室町小 (第1次) |
3月31日~ 10月18日* |
与謝郡宮津町(現宮津市) | 児童220名* | 智源寺・国清寺に分宿。宮津国民学校に通学。 | |||
室町小 (第2次) |
8月8日~ 10月12日* |
天田郡奥榎原(現福知山市) | 児童60名,教員2名☆ | ||||
成逸小 (第1次) |
4月1日~ 10月14日 |
与謝郡上宮津村(現宮津市) | 児童41名,教員3名* | 盛林寺。上宮津国民学校に通学 | |||
成逸小 (第2次) |
8月8日~ |
綴喜郡草内村飯岡(現京田辺市) | 児童31名,教員数不明* | 公会堂。 | |||
春日小 (第1次) |
4月2日~10月15日 | 与謝郡三河内村(現与謝郡与謝野町) | 児童57名,教員3名*☆ | 三河内国民学校に通学。男子は公会堂・女子は梅林寺。 | 「里に移りて」同窓会、春日校記念誌 | ||
春日小 (第2次) |
8月8日~ 10月15日 |
与謝郡三河内村(現与謝郡与謝野町) | 児童19名*☆ | 三河内国民学校に通学。男子は公会堂・女子は梅林寺。 | 「里に移りて」同窓会、春日校記念誌 | ||
京極小 (第1次) |
3月31日~ 10月14日 |
与謝郡伊根村(現伊根町) | 児童112名,教員6名,寮母5名,作業員5名 | 海福寺ほか5ヶ所に分宿 | |||
京極小 (第2次)# |
8月8日~ 10月11日 |
綴喜郡有智郷村(現八幡市) | 3年生以上50名,教員2名 | 福王寺他2ヶ寺に分宿 | |||
中立小 (第1次) |
2月17日~ 10月15日* |
加佐郡八雲町(現舞鶴市) | 児童96名,教員5名 | 即心寺・東善寺・宗見寺に分宿、八雲国民学校に通う | 「あの日京から友がやってきた」舞鶴市立八雲小学校(複製)、中立校記念誌 | 写真11枚 | |
中立小 (第2次) |
8月8日~ 10月15日 |
加佐郡八雲町(現舞鶴市) | 児童21名,教員5名 | 法心寺、八雲国民学校に通う。 | 「あの日京から友がやってきた」舞鶴市立八雲小学校(複製)、中立校記念誌 | 写真11枚 | |
学校名 | 月日(昭和20年) | 疎開先 | 人数構成 | 寮や学校など | 取り上げている資料 | 原資料 |
備考 |
小川小 | 3月31日~ 10月15日 |
加佐郡岡田中村・下村(現舞鶴市) | 児童120名,教員6名,寮母5名,作業員5名☆ | 般若寺は共立国民学校,広厳寺・林渓寺は岡田下村国民学校に通学。 | |||
待賢小 (第1次) |
4月2日~ 10月13日 |
中郡三重村(現京丹後市大宮町三重),中郡周枳村(現京都丹後市大宮町周枳) | 児童117名☆,教員5名,寮母5名,作業員4名 | 万歳寺・興勝寺・周徳寺・願成寺に分宿。三重国民学校・周枳国民学校に通学。 | 待賢校記念誌、回想録 | ||
待賢小 (第2次)* |
8月8日~ 10月15日 |
中郡三重村(現京丹後市大宮町三重) | 児童11名 | 岩屋寺。 | 待賢校記念誌、回想録 | ||
聚楽小 (第1次) |
4月2日~ 10月15日 |
与謝郡山田村,市場村,岩屋村(現与謝郡与謝野町) | 3年生以上88名,教員5名,寮母4名,作業員4名*☆# | 岩屋国民学校(岩屋公会堂)市場国民学校(宝泉寺、養源寺)山田国民学校(祥雲寺)に通学。 | 「聚楽校百年史」(市場国民学校日誌)「経験談回想記」西山氏 | ||
聚楽小 (第2次)*# |
8月8日~ 10月15日 |
与謝郡市場村(現与謝郡与謝野町) | 児童6名 | 宝泉寺・養源院に分宿。 | 「聚楽校百年史」(市場国民学校日誌)「経験談回想記」西山氏 | ||
西陣小 (第1次) |
4月2日~ 10月15日 |
与謝郡加悦町字算所,字加悦(現与謝郡与謝野町) | 3年生以上83名,教員4名,寮母3名,用務員3名*☆# | 一念寺・吉祥寺・宝願寺に分宿。加悦国民学校に通学。 | はがき他 | ||
西陣小 (第2次) |
8月7日~ 10月15日 |
与謝郡加悦町字算所,字加悦(現与謝郡与謝野町) | 児童10名*☆ | 一念寺・吉祥寺・宝厳寺に分宿。加悦国民学校に通学。 | |||
乾隆小 | 4月1日~ 10月14日 |
与謝郡府中村(現宮津市府中) | 児童165名,教員7名☆,寮母8名,作業員7名 | 府中国民学校へ通学。一のや旅館・阪本屋・妙立寺に分宿。 | 乾隆校記念誌 | 「出発の辞」 | |
乾隆小(第2次) | 8月8日~ 10月14日 |
与謝郡府中村(現宮津市府中) | 府中国民学校へ通学。一のや旅館・阪本屋・妙立寺に分宿。 | 乾隆校記念誌 | 日記、食事帳 | ||
翔鸞小 | 3月31日~ 4月30日 |
与謝郡岩滝村並びに石川村(現与謝郡与謝野町) | 193名*,教員8名,寮母9名,作業員8名 | 千歳旅館・松冨旅館に分宿。 | |||
翔鸞小 (再疎開)# |
5月1日~ 10月15日 |
与謝郡岩滝村・石川村(現与謝郡与謝野町)(9月15日からは合同で石川村のみ) | 193名* | 男山公会堂(岩滝村は9月15日まで)・福妻寺・神宮寺・西禅寺・白石寮・水戸旅館(水戸旅館は9月15日から)。 | |||
学校名 | 月日(昭和20年) | 疎開先 | 人数構成 | 寮や学校など | 取り上げている資料 | 原資料 | 備考 |
桃薗小 | 4月2日~ 10月15日 |
与謝郡加悦町(与謝郡与謝野町) | 児童87名,教員4名,寮母5名,作業員4名 | 実相寺・浄福寺・西光寺に分宿。加悦国民学校へ通学。 | 桃薗校記念誌 | ||
仁和小 (第1次) |
4月1日~ 8月17日* |
与謝郡天の橋立文殊(現宮津市文珠) | 3年生以上156名,教員9名 | 対橋楼・松吟楼・千歳楼・松富楼に分宿。文殊寺が本部。 | |||
仁和小 (第2次) |
8月7日~ 8月17日* |
加佐郡河守町(現福知山市大江町河守) | 3・4年生40名,教員2名☆ | 民家に分宿。 | |||
正親小 | 4月1日~10月13日 | 中郡五十河村(現京丹後市大宮町) | 139名* | 長福寺・高原寺・妙性寺・本光寺に分宿。五十河村国民学校に通学。 | 「こんなことがありました」正親五十河会 「学童集団疎開 第6回交流会」 | ||
出水小 (第1次) |
3月31日~ 10月14日* |
与謝郡宮津町(現宮津市) | 3年生以上240名,教員11名,寮母13名,作業員11名 | 如願寺・経王寺・大頂寺・佛性寺・妙照寺に分宿。宮津国民学校に通学。 | |||
出水小 (第2次) |
8月8日~ 10月14日* |
相楽郡山田荘村(現精華町) | 児童40名,教員3名*# | 新殿神社、光明寺・西念寺に分宿。 | |||
滋野小# | 4月2日~ 10月15日 |
与謝郡桑飼村字香河・字温江・字明石(現与謝野町) | 113名* | 慈雲寺・常栖寺・慈徳院に分宿。桑飼国民学校に通う。 | 「学童疎開」池田正太郎 |
疎開児童数 合計15,730
学校数 合計111校
*は「学童集団疎開に関する調査」では異説あり
#は『学校歴史資料実態調査にともなう参考資料Ⅱ』では異説あり
☆は『京都の歴史』巻9,第三節「教育の軍事化」表19では異説あり
参考資料
『学校歴史資料実態調査にともなう参考資料Ⅱ』京都市退職校園長会 平成10年
『京都の歴史』巻9 第三節「教育の軍事化」京都市 昭和55年
「学童集団疎開に関する調査」京都市教育研究所分室 昭和40年
『やまぼうし 北桑田の学童疎開記録集』財団法人京都ゼミナールハウス 平成8年
『語り伝える京都の戦争1』「学童疎開」久津間保治 1996年
各学校発行の記念誌
京都市教育委員会発行の各閉校誌