展示室

月替わり!教育資料展示

 令和2年10月より,常設展の中にさらに新たな月替わり展示コーナーが加わりました。様々な教育資料を毎月入れ替えて展示いたします。どうぞお楽しみに!

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令和3年4~5月の展示 (展示期間:4月5日~5月31日)
「京都市の学校・学区と感染症⑤―病気から身を守る術「美容術」の導入―」
① 『新撰小学体育全書 下』 
遊佐盈作編/京都育英書屋正宝堂/明治17(1884)年2月
 本書は,京都で学校体育の土台作りに尽力した遊佐(ゆさ)盈作(えいさく)が編集した体育の教科書です。資料に登場する「東京体操伝習所」は,明治11(1878)年に設置された,当時最先端の西洋式体操の教育機関で,現・筑波大学の源流の一つにもなり,我が国の学校体育振興の基礎を作った施設です。遊佐は,この伝習所で我が国の「学校体育の父」とも称されるアメリカ人・G.A.リーランド(本書では「李蘭度」)に指導を受け,当時最先端の知識と技術をもとに,京都にて師範学校の教諭として活躍しましたが,明治14(1881)年9月19日には,京都府内で実際に体操を実施していく計画書を,府に提出しています。
② 『新設体操教授書 後篇』 
遊佐盈作編/正宝平楽二房/明治16(1883)年7月
 遊佐は数多くの書籍を京都で出版していますが,本書はその中でも体操に特化した教科書です。緒言において,「体育ハ教育ノ一部ニシテ其要旨タルヤ身体ノ健康ヲ維持シ彼ノ悪ムヘク且ツ憂フヘキ疾病ノ襲撃ヲ防遏スルニアリ」という遊佐の体育観が示されています。
 「体操」という言葉は,現在の「体育」と同じような意味合いで戦前期長らく使用されてきましたが,実はその「体操」,すなわち「体育」は,明治のはじめ,学生・生徒の健康を向上させる目的という,衛生面を重視する形で導入が進められていました。まさにその体育振興の目的は,「疾病」の「防遏」という,感染症への対抗を目指すものでもあったのです。こうした新しい知識が,遊佐によって京都にも先駆的に持ち込まれました。

③ 『改正小学美容術 上』 
遊佐盈作編/京都教育書房/明治18(1885)年
 京都における体育の整備過程の中で,遊佐により同時に導入が進められたのが,本書のメインテーマである「美容術」でした。ここでいう「美容術」とは,「身体ヲシテ美容強壮ナラシムルノ体育法」のことを指しています。現在でこそ「美容」は,「美容院」に代表されるように,ヘアカットや化粧などの行為をイメージし,そのための方法こそが「美容術」と考えられていますが,この時期の「美容術」とは,「美容」という同じ言葉を使用しているにも関わらず,あくまで体育,体操の方法を指す言葉でした。その意味で「美容術」は,明治初期において,疾病,つまり感染症に対抗する1つの手段として,認識されていたのでした。
令和3年3月の展示 (展示期間:3月8日~4月4日)
「学校・学区の「共助」の記憶―東日本大震災から10年を迎えて―」
① 宮城岩手青森三県海嘯救恤義捐簿 明治29(1896)年6月
  元京都市立開智小学校
「宮城岩手青森三県海嘯」とは,明治29(1896)年6月15日に三陸沖で発生した,地震に伴う大規模な津波のこと(三陸沿岸を中心に死者約2万人以上を出しました)で,いわば明治時代に東日本大震災の際と同じ場所で発生した地震と津波のことを指しています。そして,この資料には当時の開智尋常小学校の先生と児童が,この災害に際して集めた義捐金のことが記録されています。被災地を支える支援の意識は,すでに明治時代から存在していました。
② 震災義捐金関係書類 昭和21(1946)年 元京都市立清水小学校
昭和21(1946)年12月21日,和歌山県潮岬南方沖を震源とするマグニチュード8.0の地震が発生し,西日本一帯に津波を伴う大きな被害を生じさせました(南海地震)。資料は地震の際に清水学区の人たちが,学区単位で義援金と救援物資の収集,さらには被災者支援という,共助の実践を行っていたことを示しています。学区の歴史に刻まれた共助の取り組みの記憶からは,まだまだ多くのことを学んでいけるかもしれません。
③ 震災地慰問袋を前にした記念写真 大正12(1923)年(推定)
  元京都市立粟田小学校
大正12(1923)年の関東大震災の際には,京都市の小学校が一体となって被災地への支援を行いました。粟田尋常小学校にはその際のものと推定される記念写真が残っています。
令和3年2月の展示 (展示期間:2月8日~3月7日)
「京都市の学校・学区と感染症④―教育令期の感染症に関する教育―」
① 京都府小学校教則 1882(明治15)年1月24日
「小学校教則」とは,小学校における教科課程および教授方法の基本方針であり,現在の「学習指導要領」のようなものです。「教育令」によって感染症に関する内容は,「生理」という新しい教科目で教えられることになり,本資料からはその「生理」において,「病毒ノ予防」,「衛生ノ大意」という内容が取り扱われていたことがわかります。
② 小学生理書 下巻 
ホストル氏著・三田村敏行訳/1879(明治12)年2月
本書は英国ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジの博士「ホストル氏」(同時期同校で生理学の教授をつとめていた,マイケル・フォスター博士か?)が著した科学入門書を,和歌山県の士族で医師の三田村敏行が訳した著作で,先に触れた「教則」で使用が決められていました。
③ 初学人身窮理 後編 中 
松下棟菴編,慶應義塾出版社/1880(明治13)年1月
本書も「カットル氏」の解剖生理衛生書をもととしたもので,編者の松下棟菴は慶應義塾で人身窮理(現在で言う「人体に関する科学」)を担当した人物です。これらの教科書を使用していた点から総合すると,「教育令」期の京都では,きわめて科学的な観点から人体,さらには感染症のことを教授していたと捉えられます。

④ 京都府小学校 教科用書選定準拠表
1882(明治15)年の「京都府小学校教則」に準拠したこの表では,「生理」の教科書として,先に触れた『小学生理書』全3冊が指定されています。

⑤ 京都府小学校 男児学科用図書表

京都府小学校教則は1884(明治17)年に修正されましたが,「生理」の内容そのものに大きな変化はありませんでした。

⑥ 京都府小学校 女児学科課程表

1884(明治17)年の教則修正でカリキュラムが男女別に設定されることになり,女子の課程には「生理」の代わりに,「裁縫・家事経済」「諸礼」が採用されることになりました(人体については,「博物」という教科目の一端として位置づけられました)。
令和3年1月の展示 (展示期間:1月10日~2月7日)
「京都市の学校・学区と感染症③―保健所としての番組小学校―」
① 療病院入学生徒条則 1872(明治5) 年 10月
「療病院」とは現在の京都府立医科大学附属病院の前身で,槇村正直や山本覚馬,明石博高らが中心となって,東洋医学に代わる西洋医学に基づいた医療を行う病院として,1872(明治5)年に開業されました。この病院では治療とともに生徒の指導も行うことにもなり,学費のことや簡単な教授実践方法(成績優秀者の治療の実践を見習え,など),守るべき生活の規則等について定めたルールが,この「療病院入学生徒条則」です。
② 証書  1874(明治7) 年 5月
こうした状況のなかで番組小学校には,「種痘」(天然痘のワクチン接種)を行う場所としての役割,つまり保健所としての機能が期待されていくことになりました。
③ 種痘施行通知書 1893(明治26)年4月
この資料は,1893(明治26)年の段階においても,種痘と関連して小学校の施設が活用されていたことを,私たちに教えてくれます。

④ 熊谷直孝肖像
明治維新当時,京都で唯一の公的な性格をもつ医療機関であった種痘館は,写真の熊谷直孝の先祖,熊谷直恭が私財を投じて設置した有信堂に,その源流をもちます。子孫熊谷直孝は,有信堂の維持とともに,最初に開校式を行った番組小学校,上京二十七番組小学校(柳池校)の創設に多額の寄付を行いました。

⑤ 柳池校講堂写真

柳池校で1878(明治11)年7月8日に開催された,講堂の落成式の模様を伝える写真です。
令和2年12月の展示 (展示期間:12月5日~1月9日)
「京都市の学校・学区と感染症②―番組小学校で感染症がどのように教えられたのか?―」
① 『健全法』 巻四
(ロベルト・ゼエムス・メン著,杉田玄端訳,致高館,慶応3(1867)年)
学制制定に伴い定められた京都府下の小学校の教則において,「養生口授」で使用する教科書として示された書籍です。
② 『市中制法』  京都府 明治2(1869)年
新時代の京都,とくに市中(現在の京都市中心部)における生活の心得が説かれた冊子です。
③ 改正京都府下小学下等課業表 明治7(1874)年1月
学制制定に伴い定められた京都府下の小学校教則の中で,課業を示した一覧表がこの資料です。

④ 改正京都府下小学上等課業表 明治7(1874)年1月
学制期の上等小学(現在の小学校4年生~中学2年生に相当)においても,京都では全級に「養生口授」が設置されていることがわかりますが,国の小学教則では一級に設置されるのみでした。

⑤ 小学課業表
 明治4(1871)年8月
この課業表から,『市中制法』が番組小学校「第五等」の教材として位置づけられているのがわかります。
令和2年11月の展示 (展示期間:11月8日~12月7日)
「東京オリンピックと京都市の学校資料―昭和39(1964)年にタイムスリップ!―」
左上:東京オリンピック記念献立  昭和39(1964)年
 東京オリンピック開催を目前とした時期に,当時の京都市の児童たちが食べたオリンピック記念献立とその調理法について記された貴重な資料。当時給食でデザートが出されるのは大変珍しかったが,記念献立にはそれが加えられていて,この記念献立が作り手にとっても児童にとっても,とても特別で大切なものであったことを,現在によく伝えてくれている資料である。
右上: 開智 (京都市立開智小学校児童文集 高学年)
                            昭和39(1964)年7月1日
 京都市立開智小学校で東京オリンピック直前の時期に編集されていた児童文集。当時の高学年児童がこのオリンピックに向けてどのような心持でいたのか。その心境がとてもわかりやすく表現されている。
下: オリンピック聖火リレーの様子 昭和39(1964)年9月28日(推定)
  京都市立鏡山小学校に残されていた聖火リレーの様子を伝える写真。学校は地域の場としても機能していて,その性格が強い京都市の場合,こうしたオリンピックに関する資料もまた,学校に残っているかもしれないことを示唆する資料。
令和2年10月の展示 (展示期間:10月8日~11月7日)
「京都市の学校・学区と感染症―京都独特の感染症への対応法がある?―」
左上:学校日記 (日誌)(乾校 ※現在は洛中小学校に統合)
             明治18(1885)年8月~明治20(1887)年3月 
 当時コレラで学校にも大きな影響が出たことが記録されています。
右上: 下京二五組通常会決議 (現在の稚松学区)
                             明治18(1885)年
 当時の組(学区の前身)で「伝染病予防」に関する活動が行われていたことを伝える資料です。
下: 児童養護読本 (副教材/京都市小学校養護研究会編)
                           昭和15(1940)年9月
 京都市の先生たちが編集した教材で,昔の京都においては,感染症に対してどのようなことを気をつけたらよいと考えていたか,わかる資料です。

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